がんと宗教

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それでもサイログロブリンは下がりきらない

1月の検査でサイログロブリンが1.7
昨年11月のヨード治療で下がりきるだろうと思ってたのに
7月の検査でもまだ1.4

微量ながらほとんど下がってません。
まだどこかに甲状腺の細胞があるんだけど、どこかわからないし、とりあえずは積極的な治療は終了で、
ひたすら毎日チラーヂンを飲み続けるだけのTSH抑制療法ですごくことになりました。

ちょっと気持ち悪いけど、どうってことないさ。

それよりも、健康診断で胃にポリープの疑いと出たため、9月の終わりに胃カメラをすることになりました。
初めての胃カメラ。ビビリなんで、麻酔してもらうことになりました。。。

私と宗教

私は卒業論文も、修士論文も宗教がらみの論文(どちらも日本人の死生観がテーマ)だったので、自らの信仰について振り返る機会が人よりは若干多いのではないかと思うのですが。。。
信仰と申しましてもこれこれこの宗教のこの宗派の信徒ですねんと公言できるような信仰もなく、
手あたり次第気になった寺社仏閣に行ってみるとか、古墳に思いをはせてみるとかいう程度のものです。

ただ、どの宗教が優れていて、どの宗教が劣っているかという議論は馬鹿馬鹿しいし、意味の無いことと思います。
個人的にはキリスト教系の教義はあまり肌に合わないんですね。ですが、キリスト教がダメだとかなんとか言うつもりはありません。
どの宗教にも良いところと悪いところがあります。信じていれば救われることもあるかもしれませんが、私自身は一つの宗旨に縛られることは今までもこれからもないと思っています。

ちなみに、母は私のことをB’z教信徒と言いますが、これは当たらずも遠からずです。

そんな感じの私ですが、宗教の勧誘が好きにはなれません。
(好きな人がいるのかって思いますが)

ものみの塔の冊子

何度かやり合ったことのある「ものみの塔」「エホバの証人」。
何度も「もう来てくれるな、冊子も入れてくれるな、私には私の信仰がある」とお伝えするのですが、数ヶ月~数年経つとやってきます。
先日もポストに入れられた冊子。
付箋がついているので何かと思えば

「家族が病気の末期を迎えたら」と書かれたページ…

これをがん患者の私が見たらどう思うか。
何故わざわざ付箋を貼るのか。
「がんなんだろ。死ぬんだろ」と言われているようで超絶不愉快でした。

母も入院(膝の手術でリハビリ中)しているときに、この付箋はどう考えても「もうすぐ死ぬんだろ」と言われてるようで、
怒りにぶるぶる震えるほどでした。

冊子は見るときと見ないときがあります。
敵を知らなければ反論もできないし、出会った時のために時々読みます。

以前やりあったときのこと

新聞か郵便物かを取りに出るときに鉢合わせしてしまい、なんかいろいろ話しかけられました。最初のバトルは大学生の頃だったか…
エホバの証人(以後エ)「この植物はどなたが作られたかご存知ですか?」
私「父が育てています」
エ「いえ、お育てになっているのはお父様かもしれませんが、創造されたのは…」
私「種か接ぎ木で育つと思いますが…」
エ「…(あきらめた)聖書はお読みになりますか?」
私「(論文に必要なので)読みます」
エ「どう思われますか?」
私「ええこと書いてあるなとは思いますが」
エ「聖書の研究会にいらっしゃいませんか?」
私「ええこと書いてあるなとは思いますが、これを信じようとか実践しようとかは思いません。興味があるのはもっと根本的なことのように思います」
エ「良いことならば何故信じたり、実践したりしないのですか?」
私「(そろそろめんどくさくなってきた)エホバの証人による聖書の解釈は一般的なキリスト教とは異なる部分が多々あります。それは比較的新しい解釈で、私には興味のないものです。何度言われても、私には興味はありません。私には私の信仰があります」
エ「あなたの信仰とは何ですか?」
私「すみませんが、暇ではないのでおかえりください。もう来ないでください。冊子も必要ありません」
エ「お母さまいらっしゃいますか。お母さまにご挨拶したいのですが」(母の知り合いらしい)
私「おりません。おかえりください。もう結構ですので」

という風な感じでした。これで研究会来てもらおうというのはちょっと強引すぎるかな?という気がしますが、私の気が強すぎなのかも。
こんないきさつがあるのにもかかわらず、断っても断っても冊子は我が家のポストに入れられます。
一度ガツンと言わなあかんのかもしれません。嫌だな…

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